スワミ ダヤーナンダジが52話をかけて語られたインドのテレビ番組「SPIRITUAL HERITAGE OF INDIA」から31の言葉を選んだ日めくりカレンダーができました。一日のはじめや終わりに、目をとおして学んだことをおもいだしてみましょう。 カレンダーができたいきさつ紹介ビデオはこちら>>
スワミ ダヤーナンダジが52話をかけて語られたインドのテレビ番組「SPIRITUAL HERITAGE OF INDIA」から31の言葉を選んだ日めくりカレンダーができました。一日のはじめや終わりに、目をとおして学んだことをおもいだしてみましょう。 カレンダーができたいきさつ紹介ビデオはこちら>>
2020年の年末に開催した3日間クラスのビデオをご覧いただけます。
本編のビデオには、波や金の絵などが写っていませんので、まず、次のⒶⒷⒸⒹ の4つの短いビデオを先に見て、本編のビデオを順番にご覧ください>> Ⓐ1クラス目10分40秒 Ⓑ1クラス目37分10秒波の絵 Ⓒ1クラス目41分26秒波の絵 Ⓓ 4クラス目19分17秒金の絵
100%健全な考えの人たちの住む星があったとして、彼らがこの地球を訪れたなら、私たちを見て驚くでしょう。おかしく見えるでしょう。彼らから見れば、全人類が精神的に病です。安心の無いところに安心を見て追いかけ、怒る理由の無いところに怒り、夫婦喧嘩から戦争までが繰り広げられています。私たちは、どうも、あるがままだけを見過ごして、そこに何か別のものを見ているようなのです。それがまさに、人がその人を失うところなのです。インドのスピリチュアルな文化は私たち人類の宝物です。無知と妄想を追い払い「あるがまま」を見せる力のあるヴェーダーンタの言葉が学び継がれ、教え継がれているからです。「あるがまま」とは、愛そのものの人、生きた宇宙、イーシュワラなのです。
ショックアブソーバーがない車はありません。あなたは人生のでこぼこ道のためにショックアブソーバーを必要とします。「私は、成功も失敗も同じに見える見方を持っています。イーシュワラを知らなかったとき、自分は成功したと舞い上がり、失敗したと落ち込んでいました。しかし今、私の目にはどのような状況もイーシュワラが私の行いに対して返してくれているプラサーダです。ですから、狭い視野の私には成功や失敗に見えても、全知のイーシュワラの視点からは、どちらもそれ以上ない良い結果に違いありません」と、賢者の目には成功も失敗もプラサーダなのです。イーシュワラの理解があればあるほど、あなたはご機嫌に、全てをプラサーダとして受け取ります。イーシュワラが想える考えが、世界をプラサーダに変えたのです。この見方が人生のショックアブソーバーなのです。
生きとし生けるものにあるこの願いを、人間は知っています。だからこそ、自由意志が与えられている人間には、「何が良い行いで、何が良くない行いなのか」の知識も生まれながらに与えられているのです。教えてもらっていないので知らなかったとは言えません。例外なく全ての人の心に現れている普遍の知識なのです。私がその内なる私の声と調和の行いを選ぶとき、喜びがあり、自己尊厳や成功感覚が現れます。良くない行いを選ぶとき、内なる声の私と、それを無視した私の分裂が起こります。この分裂がある限り、私が私を認められません。本当のことを言うなら、内なる声はイーシュワラの声なのです。自己否定の感覚は、いつも、イーシュワラとの分裂を教えてくれているのです。ですから私たちの文化では、イーシュワラとの調和もダルマと呼ばれ、普遍の知識の大きな価値を理解する成熟でかなう人のゴールとして知られています。
ダルマは宇宙の秩序です。宇宙全体に法則の姿で行き渡り、宇宙の秩序を保っている人、イーシュワラの姿をダルマと呼びます。あなたがあなた自身と摩擦しないで、他の誰かと摩擦するなんて出来ません。それが摩擦の真実です。それを確かめるなら、Tシャツを脱いで木の幹に背中を擦り付けてみることです。あなたが木を擦っているとき、あなたが擦られているというのが法則なのです。作用と反作用は等しいのです。同じように、あなたは自分を傷つけずに誰かを傷つけることなどできません。あなたがダルマに摩擦するなら、その過程であなたが摩擦を受けるでしょう。反対に「あなたがダルマを守るとき、ダルマがあなたを守ります」と言い伝えられてきた教えは本当です。これがダルマの法則なのです。
ダルマを尊ぶインドの村人に尋ねてごらん。「神はどこにいるのかね?」と。村人は笑ってあなたを見るでしょう。神はどこにいるのかという質問がとても奇妙に聞こえますから。「どこに神でないところがあるのかね」と聞かれるでしょう。あなたはその村人の態度を理解しなければなりません。大地に対して、星に対して、鳥たちや、木々や、土に対して、火や、水に対して、尊敬の気持ちが込められた態度です。ナマステー。尊敬とは神がここに存在するという認識なのです。「どこに神がいるのか」は、インドの村人にとっては、ばかげた質問なのです。「神とは何か」が正しい質問なのです。神、イーシュワラだけがあるのです。
作者がいなければ作品は決して現れません。作者とは作品を現す知識を持つ人です。物がひとりでに作品とはなりませんから。見てごらんなさい。この宇宙はどこを見ても超知的に物事が組み合わされてできた作品ですよね。原子も、細胞も、細胞でできた組織体も、地球も、その生態系も、物理学的な宇宙も、全てが作品です。世界の全てが役に立つように編みあげられた作品であるということは、「全知」を意味しています。知識と言うのは生き物だけにあります。無知もまた、生き物だけにあります。無知があるところに知識があり得ます。知識があるところに無知がありました。私たちが全知を話すとき無知はありません。全知もまた生き物にあります。全知の人、イーシュワラは信じる話題ではありません。理解されるべき話題なのです。
私が関わっている人や世界に満足していない時、私は満足だと言えません。「周りには不満だけれど、私は満足」などあり得ません。たとえ周りの一部との不調和ですら失望や争いの火種です。ですから、私は世界との調和を発見しなければなりません。「選択」を練習すること以外に選択はありません。なぜなら私は調和を生きなければなりません。それがまさに人間のゴールですから。川は、海と等しい自分自身の水位を求めて流れ続けます。どんな障害があろうとも、それを乗り越えて進もうとします。たとえ人間がダムを作っても、ダムに水圧をかけ続けます。川は、「ここで十分だ、もう疲れた」とは決して言いません。同じように、人間は、世界全体とのハーモニーに向かって、鼓舞され続けています。
なぜ生きていることが満足でないのでしょう?仕事に満足していないから?周りの人に満足していないから?いいえ、本当のことを言うと、私は私に満足していないのです。人は自分自身が満足であることを発見しなければなりません。それが「探求」の意味なのです。そのために、成功の意味が正しく見直される必要があります。成功とは、満たされた願望の量や大きさではありません。現実をうまく扱うことができる私の能力です。願望は恩恵であって、喜びがあるものです。あなたの失望の元になるべきではありません。願望を持って努力した後に起こる4つのタイプの結果、つまり、期待した通りの結果、期待以上の結果、期待した以下の結果、そしてまったく予期せぬ正反対の結果ですらプラサーダだとわかる私には、全ての状況をうまく扱うことのできる能力があります。最初の2つを上手に扱えるなら後の2つは問題ではありません。この能力を持てることこそが満足の意味で、それが成功の意味なのです。
「認められなきゃ、結果を出さなきゃ」と願望は抑圧を作ります。抑圧と私の間の距離を保つことができず、自由意志は自由を失い、ダルマに反する行いに私は目をつぶります。こうして、ますます私は自己尊厳を失います。自己尊厳がないので、ダルマとの調和が選べません。ダルマとの調和が選べない自分に、自己尊厳は持てません。このジレンマ、この抜け道のない相互依存は、アンニョーンニャ・アーシュラヤと呼ばれます。自由意志は罪悪感に支配され悲しみの手の内にあり、衰弱していて骨と皮だけが残っています。助けが必要です。祈りは、イーシュワラの助けを汲み上げる行いです。たった一つの完璧な行いが祈りなのです。つまり、何一つ自由意志が抑圧に妨げられていない完全に自由な行いが祈りなのです。そうでなければ祈りは心に現れません。ですから、祈りは自己尊厳の発見に人を導く大切な2つの道具の1つなのです。
自己尊厳のある人は、自然と援助の手が差し伸べられる強さ、アートマ・バラム、つまり、内側の強さのある人です。ですから、私は内側の強さを得るために、援助の手を差し伸べる練習をするのです。助けられる場所にいるので私は助けます。ただそれだけです。他の意図なく手を差し伸べるなら、その時に自由があります。しかし、その練習だけでは、自由意志は、様々な抑圧から完全なる自由を得る事ができません。祈りによるイーシュワラの助けが必要です。人は祈りで自分自身の中に可能な限りの慈悲を呼び起こす必要があります。慈悲は外側からはやってきません。慈悲とは地下深くに流れている水のようなものです。それはあります。あなたは、慈悲の上に生きています。慈悲を汲み上げる事のできる成熟した私が喜びなのです。祈りと援助の手を差し伸べる2つの行為が、尊厳できる自分自身を発見する知的な生き方のために必須の2つの道具なのです。
母の日や父の日に、お母さんやお父さんとの関係を特別にハイライトするのと同じように、イーシュワラとの関係を特別にハイライトするのがプージャーや瞑想です。 ちょうど樹がすでに森と関わっているように、波が海と関わっているように、個人とイーシュワラの関わりはすでにあります。瞑想する人、デャーターは、イーシュワラとの関係だけを考えでハイライトすることで、私は彼の妻、私はこの子の母親、私はこの母の娘など、他の人と関わるための見方、役割観念を落としている人ですから、べーシック・パーソンとも呼ばれます。その人は、イーシュワラだけとの途切れたことの無い深い愛の関わりに、くつろいでいる人で、変わる事のない「私」なのです。
あなたはまず最初に、ベーシック・パーソンであって、緊張から自由な人です。緊張はその後ではじまっています。「あの人にどのように振る舞えばよいのだろう」と。ですから、瞑想する人であるために、外側の人を外側に置いておきます。自然の風景には通常「こうあってほしい」などと欲求しません。ですから自然の風景は私の外側にあり、私は自然が大好きです。ところが、身近な人々には「こうあってほしい」と欲求なしにはいられません。そのとき、彼らは私の内側に住むのです。実際、私は私の内側に住む彼らを見ているのです。私の見方において彼らはそう見えるのです。そして、彼らにも過去の背景があってそう振舞わざるを得ません。この理解と愛を持って、私は彼らがそう振る舞うことを許し、自由を与えます。自由を与えることができればできるほど、あなたが自由です。その人が瞑想をはじめる人です。
どの形も原子に戻すことができます。そして原子は素粒子に戻すことができます。素粒子までさかのぼるとすでに形がありません。ですから実際には、どの形にも形がないのです。ここには信じる話題が含まれません。リアリティが話題なのです。世界は、イーシュワラから離れた別のものではありません。イーシュワラは、「世界が無くとも」あります。シャツと布のようなものです。シャツは布から離れた別のものではありません。布は、「シャツが無くとも」あります。BはAですが、AはBではありません。これが、この宇宙の作者と材料が1つの同じものであると私たちが言うことです。あなたの考え方や態度もまたこの理解を保ちながらあるなら客観的な見方です。神、つまり、イーシュワラを視野の外においてはいけません。神は信じる話題ではありません。理解する話題なのです。
もし全てがイーシュワラであれば信じる話題は何もありません。理解の保留状態ですから、あなたは「それはどういうものかを知りたい」と言うことだけができます。あなたはそれを無視することすらできません。それが本当ではないと証明できた時にだけ、あなたはそれを無視することができます。本当ではないと証明するために、あなたは探求し理解しなければなりません。ここにある全てがイーシュワラだと言うのは等式です。等式と言うのは信仰や信念の話題ではありません。35+65=100は等式です。あなたは「この等式を信じます」とは言えません。これは理解の話題です。ですから、私たちが言う、神、つまり、イーシュワラとはどこかの国の何かの宗教に属するものではありません。知識は全世界普遍です。
あなたが眠りに入るとき、時間や空間をはじめとするどのような物も体験しません。もちろんあなたはいるのですが、その崩壊状態の中で、あなたによって形がいっさい体験されていないのです。これがスルシュティ、つまり、宇宙の現れ、宇宙創造が始まる前の状態です。あなたはここから少し目覚めて夢の状態を体験します。そこにはスルシュティがあります。あなたが太陽を思えば太陽があり、人々を思えば人々が創造されます。あなたがそれらを知っていなければ思えません。ですから決してガガボガエを造り出すことはできません。あなたの知識が夢の世界創造の基盤なのです。どこで材料を見つけますか? 記憶です。つまり、あなたの知識が世界の姿で現われます。あなたが材料であり、同時に作者なのです。ということは太陽の姿で現れている人です。夢の太陽はあなたです。夢の大地も人々もあなたです。わかりましたか? あなたが作者であり材料であり、現れた夢の世界なのです。これと同じように、この世界は神だけなのです。
嫉妬も怒りも全ての感情が、イーシュワラの現れた姿であると理解するなら、もはや私は嫉妬でも怒りでもありません。違いますか? 私は物事をイーシュワラの現れた姿だと客観的に見ています、つまり、私は客観的な見方を用いました。世界があるところに神はいます。空間は神です。風は神です。火も水も土も神です。音や触感や色や味や匂いも神です。体は神で、食欲も神です。記憶も神で、感情気分も神です。喜びや悲しみ、出会いも別れも神です。偶然ではありません。原因は神であり、結果は神から離れた別のものではありません。イーシュワラを人の生活に見てゆくことがいかに重要かを、どうか見てください。客観的な人、妄想が落ちて成熟した人、あるがままを見て生きる人であるために、人はイーシュワラを生活に持ち込まなければなりません。私はこれをスピリチュアルな実用主義と呼んでいます。ヨーガの生き方です。
一旦行いがなされたら、結果は法則によって処理されます。法則は私の考えが届かない未知の宇宙全体にも満ちています。人類が法則の全てを知る事はないでしょう。その必要もありません。確かな事は、物理学の領域の法則も、生物学の領域の法則も、生態学や、生理学や、心理学の領域の法則も、さらにはダルマの法則も、一人のイーシュワラをさまざまな側面から見ているにすぎません。ですから、私は法則に騙されてはいません。法則はイーシュワラですから。「私の行いの結果は期待外れだった」は客観的です。しかし「私は失敗した人だ」とは言えません。私は判定できるほどの視野を持っていません。何かの結果を期待して、そのための行いは私の選択ですが、結果に私の選択はありません。私の行いにふさわしい結果を実らせるのはイーシュワラです。体験からこれを学ぶ事ができるのが私です。
なぜなら、結果は法則によって統括されていて、その法則は私が作ったのではありません。もし私がこの物事の秩序体系の中にある自分を見ればどうなるでしょう? 空気や水が与えられています。体や考えといった、知るための機能も与えられています。すべてのものが与えられていることを私は観ます。実際、どこまでが個人の私の自由意志であり、どこからがイーシュワラの采配でしょう? 私は、驚くべき事実を発見してゆきます。この秩序体系、つまり世界の中の全ての物が与えられています。 個人の私の意志で作り出した物は何もありません。私たちは実際に何も作っていない事を知る必要があります。ですから、「うまくいかなかったらどうしよう」という恐れは、私が結果を出せる人だという妄想から生まれています。
なぜなら、もしあなたが「どこに神がいるのか」と言うなら、神が姿を持つものだとあなたは既に決めてしまっているのです。その人がどこかの空間に居場所を持っていて、感覚器官や考えや体を持っている人であると見なしているのです。そのときに限り、「その人はどこにいるのか」と、あなたは尋ねることができます。また、「そんな人はいない」と言えるのは、あなたがその人を知っているときだけです。本当の事を知ろうとするなら、私たちの質問は「神とは何なのか?」でなければなりません。「どこに神がいるのか?」ではありません。「ここにある全てが神である」は、きちんとした教えによって理解される知識ですから、先生から生徒へ、両親から子供たちへと教えによって手渡されてきたのです。手渡してゆくことができるのです。
生きとし生けるものに不公平なく、無数の原因から結果の世界を編み上げている完全な秩序の側面のイーシュワラを、ダルマと言います。生きとし生けるものの体や考えも、このダルマの秩序の中に置かれています。さらに、自由意志が現れる私たち人間の考えには、善悪のセンスも現れます。傷つけるのは良くないです。なぜなら私も傷つけられたくありませんから。助けるのは良い行いです。私も、困ったときは助けてほしいと思いますから。人間だけに現れるこの知識を、サーマンニャ・ダルマ、普遍のダルマと呼ぶのです。ですから、ヴェーダの文化は矛盾する異なった2つの基準を許しません。これはインド人のためになるけれど、他の国の人には良くないといった矛盾を受け入れません。この普遍のダルマこそ、人間が追及すべき価値なのです。それを探求して生きる人に、当然のこととして自己尊厳があります。
人の成長はこの学びの理解にかかっています。理解から考え方が生まれます。ですからダルマと調和するにも、最初は葛藤があります。自由意志は痛々しい過去から現れる妄想のプレッシャーで簡単にハイジャックされてしまいます。しなければならないことを、したいことだと感じません。ですから助けが必要です。ひとつは自分自身から汲み上げる助けで、プージャー(祈り)とプールタ・カルマ(与える行為)が道具です。もうひとつは、外側からの助けで、先生や同じ学びをする生徒同士のサポートグループからです。この助けを得ているなら成功への道のりにいます。最初の葛藤も消えてゆきます。その時が来たなら、しなければならない事はまさに私がしたい事です。これがスピリチュアルなインドであり、私たちの文化なのです。人類はこの技術を必要としています。
たとえあなたが貧しくても、あなたは与える人であり得ます。裕福であり得ます。与えるものがないわけではないのに与えられないとき、あなたは貧しい人です。与えることは、内側の強さ、アートマ・バラムを汲み上げる練習です。内側の強さを結集させた時、自由意志は、妄想のプレッシャーによって生まれた願望から自由を得ます。願望は私に噛み付く歯を失います。私を欺く力を失います。私がご主人として自由意志を使う操縦席に座る人です。私たちの文化は、富などを軽視していません。富を通して人の内側の成長を大切にしている文化なのです。あなたを犠牲にした富はありません。与える行為は、あなたの内側の強さを汲み上げ、ダルマに反して進もうとする願望の力を緩めるものです。ですから、プールタ・カルマ(与える行為)は、あなたを助けるのです。
自由意志は、行いに選択として現れてはいても、祈り以外の日々のどの行いも、周りとの関係からの抑圧があり、自由は完全ではありません。ですから、「行かなきゃ」となります。祈りに関してのみ、することもできるし、する必要もありません。あなた以外の誰も、あなたを祈らせることはできませんし、あなたの祈りを止める事もできません。これが、祈りが自由意志を練習する大切な道具である理由です。私は、直接イーシュワラに向けて、祈りと呼ばれる行いで私の自由意志を練習します。私の中に神を呼び起こします。まさに祈りのときに喜びがあるだけでなく、プンニャも生み出ます。祈りには、体と言葉と考えの3つのレヴェルの行いを使った儀式、プージャーと、言葉と考えの2つのレヴェルの行いを使ったチャンティング、讃美歌と、そして、考えの行いだけを使った瞑想があります。3つともが、イーシュワラとの関わりを練習する祈りの行いです。
誰かが私を振り向かせたいとしましょう。その人は私の小指に触れます。その人は私の小指を想っているのではありません。その意図は、私全体を振り向かせることです。それに似て、何らかの形によって、例えば、太陽によって、私は全体のイーシュワラを呼び起こすことができます。イーシュワラを太陽として祈ることができますし、あるいは、太陽の中に全体のイーシュワラを呼び起こすことができます。クリシュナや、ガネーシャの中に、イーシュワラを呼び起こすのです。どこであれ目があるならそこに色が起こりますし、耳があるなら音が起こります。イーシュワラが色として音として現れているのです。私は色や音の形に、イーシュワラを祈ることができます。こうして、どの形からもイーシュワラを祈ることができます。そしてどのような祈りも受け入れることができます。
人間にとっての最悪の状況は、どのような助けも見えない事です。精神的に人を無気力にしてしまいます。この精神的な無力感は完全なもので、部分的なものではありません。その人の全体が無力になってしまいます。精神的な無感覚に陥ります。あるいは、人は「どこか」に助けを求めます。たったひとつの「どこか」があるからです。それがイーシュワラなのです。それが生きるということです。どのような努力にも、もう一つ付け加えることのできる努力が祈りという行いなのです。全人生がひとつの祈りなのです。これが祈り深い生き方なのです。理解すればするほど、あなたは祈り深くなります。祈りが、さまざまな形でイーシュワラの助けを汲み上げます。祈り深い性質は理解から生まれます。
車を見てトヨタ。トヨタから日本。日本から広島、広島から原子爆弾と、考えは自動的な連鎖で飛び回ります。考えとはこういうものなのです。この考えの手綱を握るために、私はマントラを繰り返す仕事を考えに与えます。それがジャパ瞑想です。悲しみや不安など、私をおなじみの状態に運ぶ自動連鎖の考えから私を自由にする類のない方法なのです。ひとつのマントラを唱えて、次のマントラを唱えて、また次のマントラを唱えて。この繰り返しです。マントラとマントラの間には終止符があり、2つのマントラの間隔に気づいている私があるので自動連鎖はありません。ジャパから考えが離れた事に気づいたとき引き戻します。実際、引き戻すことがジャパなのです。この練習こそが、普段の考えに起こるおなじみの自動連鎖を破壊する方法なのです。人類は他に方法を持っていません。ジャパによって私は私の最も深くにある人を、あからさまに引き出すことができるのです。
1トンの金が全て使われて、数えきれない指輪やネックレスが作られました。指輪やネックレスの合計は1トンです。金は何トン残りましたか? 1トンです。今、1トンの指輪やネックレスが輝いていて、1トンの金が輝いています。では合計2トンではないでしょうか? いいえ1トンです。作られた指輪やネックレスは金と同じものです。同じように、創造されたこの全世界はイーシュワラと同じものです。ですから、イーシュワラだけが満ちています。あなたの見方が、ひとつか、無数なのかを決めます。源を見るなら、ひとりのイーシュワラが私を満たしています。私がイーシュワラを満たしています。人生の最大の悲劇は、この無知ゆえに、私が私自身でいれないこと、自立できていない事です。他の人の評価で自分を認めようとすることです。知的に生きるとは、イーシュワラを理解する生き方です。
赤ちゃんは、お母さんに完全にゆだねています。疑う能力すら持っていません。お母さんが神なのです。しかし、お母さんの力には限りがありますから、その子の信頼に応えることができない出来事がいつかは起こります。お母さんが限られた能力の人であったという発見は、子供にとっては、自尊心を失う、人生で最も恥ずかしい体験なのです。ところが、子供はその痛みの記憶に蓋をしてカシャーヤにする特殊な能力を与えられているのです。カシャーヤは、心理学用語でいうなら「無意識」です。これは、4歳半までの時期に起こります。もしその能力が与えられていないなら子供はその痛みに耐えて生きてはゆけないでしょう。こうして人は皆、痛みを「無意識」にして、絶対の安心を探す人生がスタートしているのです。見つかるまで、あなたはお母さんを探し続けます。
怒りや嫉妬をはじめ、どのような感情にも固有の原因があります。4歳半までの原因が大人の私の情緒を支配しています。心理学は、感情が現れる原因と結果の繋がりをリサーチして心理療法に用いますが、人間は自意識100%ゆえに自分自身を判定し批判さえするので、その原因と結果の繋がりは複雑で心理学だけでは限界があります。ここで、世界に現れた法則は全てイーシュワラですから、心理の法則としても現れているイーシュワラを学ぶことが大きな助けとなります。現れる感情も、その原因と結果の繋がりもイーシュワラであるとの理解が、心理学を超えた理解であり、非難する必要のない私の発見なのです。私は感情に支配されている人ではありません。こうして私の感情をウエルカムする私を学び練習します。完璧に信頼のおけるセラピストとして、イーシュワラを持つ事で、私は自分自身や周りの人を嫌ったり、非難したりする見方を手放すことができるのです。
お母さんへの絶対の信頼を失う痛みにはじまり、4歳半までに蓋をされた痛みがカシャーヤです。これが無い人はいません。カシャーヤが背景となって現れる得体の知れない不安や、悲しみは大人の私の全人格を支配しはじめます。ほとんどの場合、それが怒りや嫌悪の感情として現れるのです。引き金になる人は、たまたまあなたのお母さんやパートナーかもしれませんが、彼らは単に引き金であって、誰もあなたを怒らせることはできません。あなたですら、怒ろうとして怒っているのではありません。ですから、嫉妬や怒りに良いも悪いもありません。どの感情も、それは道理にそって現れていて、納得ができるものであり、そこにですら、イーシュワラの栄光を見るのです。その見方ができるあなたは、誰かを犠牲者にしたりしません。
自己尊厳を人生の成功の意味とするヴェーダーンタの宇宙観が、知的で実用的な生き方をもたらします。全てがイーシュワラという理解は、明らかに私たちの生活からダブルスタンダードを排除します。「これはこの人には有利で、他の人には不利」といった基準を社会から除外します。世界の皆がこの宇宙観を理解しなければいけない時代です。この理解だけが、異なる文化や生態系の破壊を止めて、調和による居場所を生きとし生けるものに与えることができます。ひとりひとりが、ハーモニーを奏でる生き方を学ぶべき時代なのです。心を開く時代なのです。心を開くと言う意味は、イーシュワラに、私たちの心や生き方を統括してもらうことです。ここにある全てがイーシュワラであるという客観的な見方を得るために、私たちは怒りや嫉妬の感情から出て来なければなりません。そして、これ以上に無い自己尊厳を学ぶ必要があるのです。